2007年8月(社内回覧書類より抜粋)
8月に入り、7月までの冷夏とはうって変わって酷暑の日々が続いています。お盆休みは十分にリフレッシュ出来ましたでしょうか。何をするにしても先ずは健康が最優先されます。より良い仕事をして頂くためにも皆様には健康に留意し、日々の業務に邁進していただけるようお願い致します。
今月は、八木秀次(やぎ ひでつぐ:高崎経済大学教授)の著書「日本を愛する者が自覚すべきこと」より抜粋させて頂きます。著者は以前より膨大な知識をもとに、憲法論から日本人としてのあり方を書かれている教授であります。お盆=終戦という季節ともあいまって、一人の日本人として日本人の原点を見つめ直してみようと思い読みました。その中より、日本人が旧来より持っている国民性を垣間見る文章がありましたので紹介をさせていただきます。
「町工場」の底力
日本人の従業員は変わっている。社長が何かの思いつきで工場を見回る。たまたま新人を見つけて『オイ、どうだ。仕事に慣れたか?周りの仲間はよくしてくれるか?どうだ、やってみると現場は案外面白いだろう』『どうだ、面白いだろう?』『どうだ、面白いだろう?』と三回も繰り返すと、ついつい勢いに負けて『はい、面白いです』と言ってしまう。しかも、彼は、あろうことか、その単純な、退屈な、創造性とは無関係に思える作業に面白さを見出してしまい、やがて熟練の職人となる。こんな国は日本だけだ。
町工場の仕事は一見、単純で退屈で、創造性とは無関係に思える仕事かもしれない。しかし、旋盤の動かし方や、最新のコンピュータ制御の機械の動かし方にコツを見出したりして、「これはオレにしかできないのだ」と言い、油まみれになりながら、世界でも最高のものをつくってしまう。こういう人が日本の底辺を支えているのです。
どんなに大きな会社になろうが、これが日本の製造業の原点だと思います。上からこの仕事をやれと言うのではなく、上も下もいろいろ意思疎通しながら自分の会社を少しでも良くしていく。自分の仕事を少しでも改善し、働きがいを見出していくというのが日本の国の伝統であり、国柄なのです。
「佐久間艇長の遺書」
戦前の「修身」の教科書に載っている「佐久間艇長の遺書」という私の好きな話があります。
当時は小学校三年生が読んでいたものです。明治四十三年の春、第六潜水艇は、演習のため山口県新湊沖へ出たが、事故で浮上できませんでした。まだ、潜水艦になっていない潜水艇の時代です。結局、佐久間艇長(当時、まだ三十歳)をはじめ乗組員十四人が亡くなってしまいます。
ちょうど同じ頃、イギリスで同じような事故が起きました。その時イギリスの潜水艇を引き上げてみると、我先に逃げようとしてハッチのところに折り重なって乗組員が死んでいました。きっとこの第六潜水艇も、引き上げてみると中は阿鼻叫喚の地獄絵図のようだろうと予想されていました。ところが、引き上げてみたところ、乗組員全員が最後まで自分の仕事から離れないまま、その場所で整然と死んでいたということがわかりました。
しかも、残された佐久間艇長の遺書を見て、人々の不安は解消されたどころか、みな驚き、さらに感動までもしたそうです。イギリスの事故があったから余計そうだったのでしょう。
「修身」の教科書には以下のように書かれていました。
「佐久間艇長の遺書には、第一に、陛下の艇を沈め、部下を死なせるようになった罪をわび、乗組員一同が、よく職分を守ったことをのべ、またこの思いがけない出来事のために、潜水艇の発達を妨げるようなことがあってはならないと考え、特に沈んだ原因や、その様子が詳しく記してあります。次に、部下の遺族についての願いを述べ、上官・先輩・恩師の名を書きつらねて別れをつげ、最後に『十二時四十分』と書いてありました。艇を引き上げた時には、艇長以下十四名の最後まで職分を守って、できるかぎりの力をつくしたようすが、ありありと残っていました。遺書は、この時、艇長の上着から取り出されたのでした」(『初等科修身三』文部省 1943年 原文は歴史的仮名遣い)
日本人としての品格や、誇りといったものが薄れて来つつある現在、日本人が古来より育んできた仕事に対する姿勢や、思いが両方の文章には書かれているように思います。愚直と言われても、個人も企業も常にこのようにありたいと思います。
2007年8月25日
上田 信和