2008年7月(社内回覧書類より抜粋)

7月も終盤に入り、毎日蒸し暑い日が続いています。現業に携わっている皆様には毎日過酷な日が続いていると思います。こういう時こそ、自分自身はもちろんの事、関係する作業員の一人一人の健康に十分配慮し、適切な対応をお願いしたいと思います。
さて、今月の9日に、先月に続き「とやま企業経営未来塾」に行ってまいりました。今回は、参加者各社のアンケート結果から、会社の現状を把握した上で、問題点の洗い出しを行いました。セミナーは午後1時から夜9時まで、前回同様、10分程度の休憩を3回ほどはさみましたが…ほとんど休みなし。大きな充足感と多くの課題を再確認した有意義な時間を過ごすことが出来ました。その中で、講師より、当社の状況を確認頂いた上で、『V字回復の経営』(三枝匡(さえぐさ ただし)著)をお薦め頂きましたのでその中の一部を紹介させていただきます。

「企業戦略の最大の敵は、組織内部の政治性である」組織の政治性とは、会社の中の派閥のような話ではなく、一緒に飲めばとても楽しく、性格も良い普通の社員が、危機感の欠如と変化への恐れから、新しい変革に背を向け、身の安全を図ることです。そのため企業を変えようとする努力は社内のあちこちで骨抜きになり、結果的に業績回復や体質変化が遅れてしまう。
これが米国なら、経営者の行動はきわめて単純かつ短絡的になり、社内の抵抗を強権で排除する。トップの方針に逆らったり行動を怠ったりする者に対する経営者の我慢の時間軸は、日本では想像もできないくらい短い。昔は米国にも長期の雇用システムがあった。経営者は苦しみながら「最後の手段」として社員に辞めてもらうという経営手法をとっていた。しかし今では決算が黒字でも「株価維持や財務目的で」社員を切ることが普通になった。証券アナリストはそれを喜び、ウデのいい経営者は年に数十億円ボーナスをもらう。社員は経営の単なる道具であり、これが米国資本主義の「株主支配型」経営が行き着いた姿である。
一方、事業不振に陥った日本企業の多くは、短絡的な行動をとらずに、時間をかけてなんとか会社を改革していこうという姿勢を示してきた。それは日本的雇用システムを守りたいという社内における大義名分ばかりではなく、日本という風土上、仲良く暮らしてきた村社会から、自分の村人を切り捨てても平気という冷厳な経営者は生まれにくい。それで多くの日本の経営者は、既存の枠組みを大きく壊さない範囲の改善に励んできた。しかし、それは問題を先送りする道でもあり、成長期ならいざ知らず、閉塞した経済環境の中で余剰人員を抱えた経営者が、人減らしや体系変更は嫌だが、ドラスティックな組織の活性化は必要だと考える矛盾に陥ってしまった。それを両立させるには「そこにいる社員が今まで以上に有効な働きをする」ことしかない。
多くの日本企業の上に位置する社員は、熟成(老成)してしまい昔ほど働けない。目標が見えないこともあって、頑張る気にもならない。上が燃えないから、下も燃えない。戦略的なものの考え方が米国のビジネスマンより劣っているからとも言える。経営リテラシー(戦略・マーケティング・組織変革など経営コンセプトに関する読み書き能力)が低いため、経営者的能力を持った人材が少ない。かなり高額な給与レベルの上級ミドルがゴロゴロしているのに、その人たちの事業意欲や責任感は薄い。若手社員は上位者のだらしなさに怒るが、同じ穴の狢(むじな)だからいつの間にか同じ色に染まっていく。とりわけ必死に働くべきはずの不振企業の社員ほどノンビリしている。そのくせ狭い社内で政治性を発揮することだけは得意である。
余剰人員を抱えているうえに社員がこの状態では、会社が元気になるわけがない。

自社が他社のスピードに対抗しつつ、他社よりも人を大切にする経営を守ろうというならば、役員も社員も他社以上に経営的技量を身につけ、熱く燃え、集中的にいい仕事をしない限り、競争に打ち勝つことなどできない。

日本企業の多くは、このギャップをいまだに埋めることができないでいる。業績が沈滞し、自信を失ったままなのである。個々の日本企業の改革の遅れが国全体で集積し、それが日本経済の長期低迷を生んでいる。不景気を日本の政治の貧困のせいにする人が多いが、責めるべきは自分の会社の改革の遅れなのである。

2008年 7月 25日
上田 信和

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