2012年9月(社内回覧書類より抜粋)

 朝晩、涼しい日が多くなり、暑くて長い夏も、やっと秋の兆しが訪れてきたような気がしています。現業に従事している皆さんは、自分自身の体調管理とともに、作業員の皆さんの体調管理も含めて気が抜けない毎日であったでしょう。私自身も全社を通して、熱中症などの報告もなくほっと胸を撫で下ろしている状況です。
 さて、当社の69期も9月末日で終了します。10月1日をもって新しい期に入るわけですが、皆さんの頑張りがあって、以前よりも確実なる進歩と結果が見て取れる期になったのではないかと思っています。
 会社は継続する事が目的でもあり、その目的を達成するためにも、継続的な利益の確保は必要最低限の条件であると感じています。その条件を達成して始めて、皆さんの雇用とともに、安定的な生活を可能にし、と同時に、協力会社の育成や、会社で働く人たちの家族の安定的な生活も可能になるのです。その考えは、忘れてはいけないと思っていますし、またそれを妨げる事象が生じた場合においては、全力でその事象を排除する必要があるとも思います。それが、かりに短期的に損害が生じる場合であっても長期的に考えると目的に繋がる事であれば直ぐにでも実行するべきであると考えています。
皆さんにも、このような考え方に理解をいただき、より良い会社になるよう、全社員で頑張っていきましょう。
 「武士道と修養」(実業之日本社)の中にこのような記述がありました。
「世を渡る」とはどういう意味だろうか。「世を渡る」という事を、自分以外の多くの人たちと共に生きていく事と定義した場合、どのような考え方で世を渡れば良いのか。あくせく働く勤勉貯蓄主義で行こうとする人もいるだろうし、飲めよ食らえよと、宵越しの銭は持たない主義でいく人もいるだろう。人生は限られた僅かなものだと、太く短く行こうという人もいるだろうし、なるべく細く長く行こうという人もいる。この世の中は誰とでも一緒に通っていける。馬車も馬も一緒に通れる大きな広い道であるけれど、その中には階段があったり、人によっては高いところを歩く者、低いところを歩く者がいる。
また、このような記述もありました。
道には広い道や狭い道がある。広い道だと思っていても人として歩むべき道は狭く、間違って他の道に入れば馬車にひき殺されるかもしれない。キリストが「我が道は狭し」と言ったのも、恐れ慎んで自分自身の道を行かなければ、外道に陥るおそれがある。

両方の文章とも十分に意味は理解が出来ます。確かにそれぞれの人生、他人から言われる筋合いは無いのかもしれません。しかしながら、人として進む道は実際は非常に狭く、気をつけなくては何かとはずみで外道に陥る可能性があるという事です。特に、集団生活や、組織の中で動く場合はそうだと思います。
ある意味、自分の生き方や考え方を否定されたり、束縛されたりする事があるかもしれません。しかしながら、それを否定した時点で組織の崩壊が生じたり、組織全体の力が弱くなったりするかもしれません。それは、短期的に生じる場合もあるでしょうし、長期にわたり少しずつ悪化していく場合もあります。ただ、同じ組織で動いている以上、誰かが外道に陥りそうになっていたりした場合には助けたり、助言したりするのも組織の努めであるし、必要な事であると思います。

2012年9月25日
上田 信和

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