2013年7月(社内回覧書類より抜粋)

 暑い夏がやってきました。今年は梅雨もそこそこに、早い時期からの暑さにすでに体力的にも辛い日々が続いていると思います。適度な休養と水分補給を行い、現場内での安全管理に注意して頂きたいと思います。
 さて、今月の9日夜に「東京電力福島第一原子力発電所の事故のおり、現場で指揮を執った吉田昌郎元所長が、東京都内の病院で食道がんのため58歳で亡くなられました。」というニュースが流れました。皆さんも、名前は知らなくても、顔写真を見ていただければ殆どの方が思い出すでしょう。ニュースの中で、一昨年11月の吉田所長が在任中に、福島第一原発の事故現場が報道関係者に初めて公開された際に行われたインタビューの映像が流されていました。映像の中で「事故直後の1週間は死ぬだろうと思ったことが数度あった。1号機や3号機が水素爆発したときや2号機に注水ができないときは終わりかなと思った」というコメントが紹介されていました。また、去年8月に福島市で開かれたシンポジウムでの映像では福島第一原発の今後について「日本だけでなく、世界の知見を集めて、より(原発を)安定化させることがいちばん求められていると思う。それが地元の人たちにとって改善したと実感してもらえることだ。私自身も体力が戻ったら現場で力を出したい」とコメントされ、復帰への意欲も感じ取られていただけに、吉田氏の悲報を心より残念に思いました。
 番組の中で、吉田所長の経験談を記した著書『「死の淵を見た男」吉田昌郎と福島第一原発の500日』が紹介されていたので、リーダーとして学ぶべき事、そして、極限状態で人間”吉田昌郎”がどのような判断を行っていたのかを知りたくて翌日購入し早速読んでみました。
吉田氏は、何かトラブルが起こったときには常に”最悪の事態”を想定する習慣が身に付いていたと思われます。地震があり、津波があり、そして、発電所全体が停電した時点で、格納容器の爆発、放射能の飛散、放射能レベルの上昇を連想し「チェルノブイリ事故×10倍」の事態に発展する可能性まで想定し、そして、すぐに原子炉を水で冷却しなくてはならない、水を確保する方法は…と順序だて、その時に対応出来る最良の判断(場合によっては官邸の指示に反しても)を行ったとの事です。仮にそのような対応を即座に行っていなければ、日本は、放射能汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の住める地域(北海道と西日本)に3分割されていたかもしれません。日本はあの時まさに、3分割されるぎりぎりの状態だったかもしれないとも言えます。
 あの時に、限られた情報を把握し、最悪時のリスクを想定し、自分自身の覚悟を決めて、そこで起こるであろう全ての責任を負い、そして不眠不休で闘っていた、それは、ある意味「日本」を守るために闘う男であると感じました。時には仲間に「決死隊」とまで名付けて作業を指示していたとも書かれています。「私はあの時、自分と一緒に”死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていた」との言葉の通り、吉田所長に掛かっていたプレッシャーは、「死因に放射線による影響は無い(東電発表)」という発表もありましたが、当時の過酷な状況を考えると、58歳という若さで亡くなる事を含め、改めて、素晴しきリーダー像を垣間みる事ができ、そしてそんなリーダーを亡くしてしまったという無念な思い、そして、あの地震、津波が無ければと再確認し、まだ終わりの見えない少しでも早い復興を希望します。
 著書の中では、複数の東電職員、そして関係する人々(原子力安全委員会、政治家、官邸等)の姿も記しています。多くのリーダーそして、部下、職員(仲間)それぞれが「死」を覚悟して最悪の事態を少しでも良くするために、それぞれの持ち場で覚悟をしながら自分の意志で頑張る姿が描かれています。自分がリーダーである時は、「誰をその危険な箇所に従事させるか、その責任は…」であり、それが想定外の結果で終わった時には「死の覚悟」までした人の”生き様”を感じる事ができました。
 責任と覚悟、この言葉は常に同時にあるべきかと思います。また、それはどんな状況下でも、どんな立場においても必要な言葉でもあると思います。日々の業務において、それぞれの立場で「責任と覚悟」を完遂されますようお願い致します。

2013年7月25日
上田 信和

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