2015年4月(社内回覧書類より抜粋)

新年度に入りました。例年通り挨拶回りを行っていると、いろんな人と話をする機会もあり、その中で、福島県の内陸部で建設業を営んでいる建設会社の社長さんと話をする機会がありました。

多くの建設会社が、震災を機に除線作業やそれに類する運搬・撤去作業をしながら売上や利益を確保している中で、その会社はそのような業務に走らず、耐震化工事や老朽化した橋梁の修繕工事を積極的に受注をしています。
地域のインフラの維持を考え、技術力を上げ、今後の会社や業界の方向性を考えた上で愚直に頑張っている姿に感銘を受けました。

また、同時にこのような話もされました。被災地ではまだまだ十分な施工業者数が確保できず、業者探しをしている状況だそうです。
しかしその反面、建設業とは別の新規事業に参入した建設会社には、入札時に企業の評価点として加点されるという入札方法が取られているそうです。

私たちがいる建設業は、入職する若者が少なく離職率も高く「担い手」を確保する事が困難になっている中、建設業から別の業種に参入した業者にはご褒美をあげるという入札方法を取り入れているのです。
発注者と行政が状況の変化に対応が出来てないからではないでしょうか。
現状に合っているかを確認せずに、以前の上司や関係者から命令されたことを遂行しているだけではないかと思われます。

20世紀を代表する女性哲学者の一人「ハンナ・アーレント」の著書「全体主義の起源」の中で

「本当の悪は、平凡な人間が行う悪である」 これを 「悪の凡庸さ」 である

と書いています。

これは、大きな組織の中で、自分に与えられた役割を忠実に実行し始めると、その行為を行うことに集中するため、行っている行為の「善・悪」「正解・不正解」「道徳的であるか否か」「時代にあっているか否か」
という判断が出来なくなると言うことです。
考える事自体が、行為者にとっては無駄なことで、思考を停止させてしまう。
それは平凡な人であればあるほど顕著に出てくるそうです。

日々、情報化された社会が進化し続けています。
わからないことがあったらすぐにパソコンやスマホで検索すれば答えが得られる時代です。
そうなると、わからないことを蓄えている時間、それについて自分で考える時間が不必要になります。選択肢の与えられた質問には答えられても、なぜそう思うのか、自分で考えることができなくなってしまいます。

どんな疑問も瞬時に解決できる社会に生きていると、思考が止まってしまうのです。
この、『考えなくてもいい社会』に、危機感を持っています。

成熟した平和な社会、考えることをやめ、指示された通りにやるのが最善だと(勝手に)考える社会。
時には、考えることをしていないためマニュアルに書いてある以外のことには対応できない、ネット上に流れている情報に影響を受け、それを鵜呑みにする…物事を考える力が備わっているかどうか、自分自身を振り返ってみることが大切だと感じています。


ハンナ・アーレント:1906年ドイツ生まれ、社会主義者のユダヤ人家庭で育ちました。
大学では哲学者のハイデガーに師事し、既婚者である彼と一時不倫関係に陥る。
第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に連行されるも、脱出。アメリカに亡命。
1951年に著書『全体主義の起原』を発表して話題となり、哲学者としての地位を確立。
その後、プリンストン大学やハーバード大学の客員教授を務め、その間、映画「ハンナ・アーレント」でも描かれているアイヒマン裁判を経験。
この騒動後も政治哲学の第一人者として活動を続け、69歳のときに心臓麻痺によりその生涯を閉じる。

アイヒマン裁判:1960年代初頭。ナチスの親衛隊将校、数百万人ものユダヤ人を収容所へ

移送したアドルフ・アイヒマンが逮捕された。
哲学者のハンナ・アーレントは、自ら希望して彼の裁判を傍聴し、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを書く。実際に裁判でのアイヒマンの発言を聞くと、彼が残虐な殺人鬼ではなく、ヒトラーの命令どおりに動いただけの〝平凡な人間〟なのではないかと感じるようになり、ユダヤ人指導者がナチスに協力していたという新たな事実も記したことで、発表後、世界中で大批判が巻き起こる—。

2015年4月25日
上田 信和

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