2015年8月(社内回覧書類より抜粋)

お盆も過ぎ、かなり過ごしやすい気候になってきました。

今年の夏は7月中旬から盆前まで本当に暑い日が続き、

その中でも各現業においては工程管理と安全管理に努力いただき感謝いたします。

 

暑いさなか、今年は戦後70年ということで特別番組が多く組まれていました。

特に、安保法案に関する議論がなされている最中ということもあり、

「戦争」という、起こってはならない事柄について、

いろんな面から議論がなされている様に感じ、

平和の有難さを感じました。

 

暑いお盆前の8月12日、日航ジャンボ機の墜落事故についての報道番組が流れていました。

日航ジャンボ機の墜落事故は、今からちょうど30年前の1985年8月12日の

夕方18時56分に起きました。

羽田発、大阪伊丹空港行きの定期便、ボーイング747が群馬県の

通称「御巣鷹山」に乗員乗客524名を乗せたまま墜落しました。

そのうち520名が亡くなり、

航空機事故史上、最も悲惨な事故として記録されています。

 

その墜落機を操縦していた機長の娘さんが、

日航の客室乗務員として働いていることを伝えた報道番組を見ました。

その事実は、その番組を見て初めて知り、

「何故、彼女は、わざわざ客室乗務員になったのか?それも日航の?」

という疑問が生じました。

 

事故当時の彼女は高校3年生だったそうです。

“突然の航空機事故で父を亡くした娘”であり

“墜落したジャンボ機を操縦していた機長の娘”という

二つの立場で、最も多感な時期、普通の人では考えられないほどの苦悩の日々が

続いたと思います。

 

事故当初、事故の遺族からは

『519人を殺しておいて、のうのうと生きているな』

というような心無い電話が自宅にもたくさんかかってきていたそうです。

それでも、その度にお母さんは、見知らぬ嫌がらせの電話にもきちんと応対し、

『申し訳ございません、申し訳ございません』、

ただそれだけ何度も繰り返していたそうです。

 

彼女自身も“父を探したい”と思っていても、昼間の遺体安置所には、

多くの遺族がいるためいけない。

ひと気がなくなる夜を待ってから父を探していたそうです。

 

彼女はその後、日本航空の客室乗務員になることを選択したのです。

その時の思いはどんな思いだったのだろう?

「遺族への償い?」「飛行機のより安全な運航のため?」

どちらにしろ、この決心には、物凄い、崇高な考えを持たないと出来ない、

最も辛い選択を彼女はしたのだと思います。

 

事故から15年後、環境の変化がありました。

墜落機のボイスレコーダーが公表され、父親である機長が墜落する寸前まで懸命に

操縦をしていた様が鮮明に記録されていたのです。

彼女は「父は本当に最後の一瞬まであきらめず、頑張った。

本当に無念であっただろう。

最後まで頑張った父の事を誇りに思わなければいけない」

そう思いはじめたそうです。

 

ボイスレコーダーに残された父親の声は、ほかの遺族たちの心にも響き

『本当に最後まで頑張ってくれたんだね』

『ありがとう』

という言葉を掛けられるようになったといいます。

そんな言葉を掛けられる度に、

彼女は、胸からこみ上げるものがあり、涙が出る思いになるそうです。

 

「父はボイスレコーダーの音声という形で、

残された私たち家族を守ってくれました。

父が残してくれたボイスレコーダーを聞き、新たに、

また安全を守っていかなければと再認識しました」

と彼女は言っています。

 

取材中も、彼女が機長の娘だと知る1人の乗客が

「これからもJALに乗るから、頑張って」と話しかけてきたそうで、

そう声を掛けられた彼女の目からは涙があふれていたそうです。

 

あらためて、彼女自身が最も辛い時期に、

最も辛い仕事である客室乗務員という仕事を選んだ時の思いと、

その仕事に対する真剣さと誇りを感じました。

 

誰しも今の仕事を選ぶ時には何かしらの理由があったと思うし、

理由は人それぞれ違うと思います…

それがどんな理由であれ、誰にとっても、

自分の選んだ仕事に対する真剣さや思いや誇りは大切なことだと思います。

そんな、仕事を選んだ時の思いを常に持ち続け、

そして愚直に真っ直ぐに今の仕事に純粋でありたいと再確認しました。

 

 2015年8月25日

 上田 信和

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