2021年4月(社内回覧書類より抜粋)

チューリップの花が咲き揃う、そんな季節になってきました。

砺波市最大のイベント、チューリップフェアは、今年で70周年という記念の年です。

70周年を記念した新しいシンボルタワーも完成し、

新旧2つのタワーが揃う年(本年度中には旧のタワーは撤去される予定)でもあります。

昨年はコロナ禍により開催できなかったこともあります。

開催にあたっては、時間帯を指定した入場券を実施するなど

密を避けて安全に見学できる設えも考えられているようです。

時間のある方は是非見学に行ってみて頂ければ幸いと思いますし、

安全により沢山の方々にしっかりと見てもらえればと思います。

とは言うものの、コロナ禍の折、富山県内も「富山アラート」が発令され、

ゴールデンウィークは出かけるとしても家族で近隣での移動が要求されるように感じます。

十二分に気を付けた行動をお願いいたします。

 

さて、オリンピックの開催も慎重論が出ている状況ではありますが、オリンピックの開催云々と同時に、

開催関係者の失言について何かと議論がなされていたことは記憶に新しいことと思います。

メディアでの取り上げ方も疑問が残るところではありますが、誰しも程度の大小はあるとは思いますが、

「失言が無い」と言い切れる人はほとんどいないのではないかと思います。

なぜ、人は失言をしてしまうのか…興味深いコラムを参考にしながら自分自身で考えてみました。

 

単純に、なぜ人は失言をしてしまうのか?

その原因は、本人の認識が間違っていたり、古かったりするからだそうです。

失言を無くす為には常に新しい情報や知識を身につけておかなくてはなりません。

ただ、常にあらゆる分野について情報や知識を身に着けておく事が

出来るかというと物理的にも無理だとも。

では、「自分の認識が古い、あるいは知識が足りていない」と感じた時にはどうするべきか…

20世紀を代表する哲学者Wittgensteinの著書『論理哲学論考』の最後を締めくくる言葉に

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と書かれているそうです。

この言葉は、乱暴に言うと、「自分がわからないことや、知らないことは黙っていなさい」

と言うことです。確かに喋らなければ失言することはありません。

Wittgensteinは著書の中で「哲学の目的は思考の論理的明晰化である」としながら、

「哲学は思考可能なものを境界づけ、それによって思考不可能なものを境界付けなければならない」

とも述べているそうです。

 

哲学と言葉は違うとは思いますが、言葉も同様に、どこまでが自分の考え方を言葉で表す事が出来るか、

そしてどこまでが正しく現状に沿っているかを明確に区切る「境界線」が必要です。

その境界線を基準にして言動を意識すれば「失言」は最低限防げるとも言えるでしょうし、

境界線まで至らないと思われる場合には沈黙すべきだとすれば「失言」することもありません。

また、Wittgensteinは、言葉は世界を写し取るものであるとも考え、言語を分析することによって

「その命題に答える意味はあるのか」を明らかにしようともしたそうです。

 

それぞれの場面で、意見や考え方を述べる、あるいは行動を行わなければならないことがあります。

そのような時に、発言する意味や、行動する意味はあるのか?という事を考え、

さらに必要とあれば、それに対する認識や知識が有るのか?

それらを瞬時に考えたのちに行動を行うべきだと言っているように感じました。

そこで間違ってはいけないのは、「黙っている」という事は

「傍観する」という意味ではないという事です。

「自分の認識が間違っている、あるいは知識が至らなかった」と気付いたならば

むしろ良い機会ととらえ、認識や知識を積極的に学ぼうとする姿勢が大事だという事です。

失言で失敗しないためにも是非、積極的な姿勢でいたいものだと感じました。

 

 

2021年4月23日

上 田  信 和

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