第2章(1954-1963)富山県の代表的な建設会社を
目指して
戦後の混乱期を脱し、日本経済の前途にも明るさが見え始める。砺波工業(株)の10年の歴史は、そのまま戦後の歳月と重なっていった。
10周年記念式は、就任して1年足らずの上田社長が指揮をとって本社事務所(砺波市太郎丸の元医員松田恭宅を借りる)にて社員25名と関係者が一同に会し行われた。

Scroll
昭和30年代に入り、高度経済成長の波に乗って建設業界は好調を期す。創業時には土木部門の完工高が多くを占めていたが、昭和30年からは建築の割合が多くなった。
その様な中、昭和36年11月に大口の施工主でもあった般若鉄工所の倒産(2,866万円の手形が不渡り)により創業以来の危機に直面する。当時の資本金が2,000万円であったことを考えると、時の経営陣の心痛を窺い知ることができる。
-
1954(昭和29年) 高岡市末広町店舗新築工事 -
1955(昭和30年代) 河川工事

Scroll
これを機に、協同組合的な雰囲気から本当の意味での企業として脱皮できた。30年代の後半には、建築工事では、富山県内の国・県・各市町村・公団・公社の殆どの物件において指名をいただき受注につなげ、施工を積み重ねる事によって信頼を重ねていった。
-
1962(昭和37年) 砺波電報電話局新築工事 -
1963(昭和38年) 県立砺波工業高等学校新築工事

Scroll
港湾工事にも進出し、日本海重工業(上田社長が以前在籍していた職場、現在の新日本海重工業(株))より富山新港の防波堤ケーソン工事を複数回受注し、新しい分野を切開いた。


Scroll
また、昭和37年に砺波市内各地で着手された圃場整備事業は当社の土木部門での業績に大きく貢献した。
事業のピークは昭和40年代、44年・45年が最盛期であった。
