第3章(1964-1973)総合建設業への道
東京オリンピックが開催された昭和39年は当社にとっても20周年という記念すべき年でもあった。記念として砺波市中央町3番21号に鉄筋コンクリート3階建ての社屋を完成させた。社是も制定し20年を掛けて企業としての要素を全て満たした形となった。


Scroll
日本全体がオリンピックのお祭り騒ぎに湧いたのだが、終われば一転、それまでの大型のインフラ整備(オリンピック施設・東海道新幹線・名神高速道路等々)の反動で、日本経済自体が停滞局面に入り、建設投資は伸び悩み、受注競争は短期的に激化した。


Scroll
しかし、日本経済自体が上昇機運にあり、昭和42年後半には回復し、イザナギ景気に突入する。民間投資は製造業・非製造業問わずあらゆる業種で行われた。公共工事も40年代後半からは、地方に中核都市を建設し、人口を分散させ日本全土を改造しようという田中角栄首相の「列島改造論」により活況を呈する事になる。


Scroll
その様な中で、砺波工業(株)も地方の小建設会社から中堅の総合建設業への脱皮をはかっていた。社員も会社に対して自信と誇りを持ち始めた時代でもあった。
当時の地元の代表的な建設物は全て砺波工業(株)の施工であると言っても過言ではないほどであった。社員全員が、自分たちがつくって、お客様に提供しているという誇りと、どこに出しても恥ずかしくない技術を駆使して建設しているという自信を持ったからだ。この、誇りと自信が更に愛社精神を育成し、新たな社風を生み出していった。

